アザミミチナミダミチ

木造平屋のアパートにて-11

彼がいない日々が少しずつ積み重なるごとに、あたしの部屋の本棚の中も、彼の書いた童話が少しずつ増えていったわ。小さな本棚の丁度一段分が彼の作品で埋まった時……。そう、昭和天皇が崩御なさって、時代が昭和から平成へと変わった頃だったわね。その頃は、沢山の個性的なバンドが登場したり、それから、日本中が好景気に浮かれ上がっていた時よ。あたしは彼の結婚を知るの。

ミュージシャンの彼の時とは違って、童話作家の彼の結婚はほとんど報道されなかったわ。テレビでその話は聞かなかったくらい。むしろ報道されたのかしら?

あたしが彼の結婚を知ったのは、実際に彼が結婚したのよりも後の話で、彼の本の後書きで、さりげなく奥さんのことに触れていたからなの。ミュージシャンの彼のことがあったから、頭の片隅でうっすら予想はしていたんだけど、でもやっぱり、ショックだったわ。

あたしは後書きを読みながら泣いて……ページに涙を落としてしまった後、あぁいけない、涙でページが汚くなってしまう、なんていう小さなことを気にして本を本棚にしまったわ。だけど、小さな部屋には彼との思い出があふれかえりすぎていて、部屋にいるだけで彼のことばかり考えてしまうから、あたしは泣きながらアパートを飛び出したの。目に映る景色すべてが思い出深いものだったから、それを見なくてすむ場所を求めて、ただ闇雲に歩いたっけ。

涙でにじむ景色の中をひたすら歩いて、気付くと知らない場所にいたわ。そこは、川原だった。 あたしは芝生に座り込んで、川を眺めながら静かに泣こうと思ったの。彼との沢山の思い出、彼の造り出した沢山の世界を思いながら、頬に涙をつたわせたわ。

「あんた、ジャマ」

突然のその声に振り返ると、ボサボサ頭に眠たそうな半開きの目をした、猫背の男の人が立っていたの。

「オレさ、絵ぇ描いてんだ。だからあんたジャマ」

確かにその人は、左手に絵筆を握りしめていたのよ。そしてその人のうしろには、キャンバスが置いてあったの。確かにその位置からだと、彼の描きたいであろう場所にあたしの姿が入ってしまうのよね。

「ご、ごめんなさい……」

あたしはその人に謝って、その人の視界に入らないよう、立っているキャンバスの後方に移動したの。その人は納得したみたいに無言でうなずいて、キャンバスのところへ戻ると、左手に握りしめていた絵筆でせっせと絵を描き始めたわ。あたしはその背中を確認した後、両膝に頭をうずめてまた泣いたのよ。

あたしがしばらく泣いていると、「あんた、うっとうしい」目の前にその男の人が立っていて、あたしにそう言ったの。

「へ?」

あたしは間抜けな声を出すしかなかったわ。

「だから、あんたの泣き声がうっとうしいつうてんの」

別に大声で泣き叫んでた訳じゃなくて、わりと静かにすすり泣いてたんだけどね? それでもその人にとって、あたしの泣き声は鬱陶しかったみたいなの。それで、どこか違う場所に行こうかと思ったんだけど、泣きながら宛もなく歩いていたからここがどこなのかよくわかっていなかったし、沢山歩いて歩き疲れていたから、移動する気力がなかったのよね。だからあたしは移動せずに、ぼんやりとその人の絵の方を眺めていたわ。

その人の絵を眺めているとね、不思議と涙が止まったのよ。その人はここから立ち去らない代わりに泣くのをやめたあたしを見て、何も言わずにキャンバスの方へ戻って絵を描くのを再開したわ。

あたしはその人がせっせと左手でキャンバスに色を塗り込めていく後ろ姿を、ただぼんやりと眺めていた。ここから見える川の風景は、あたしからしてみれば何も面白くない、ごく普通のありきたりな風景だったのよね。でも、その人の絵の中にある川の風景は、きらきらと輝いていたの。

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