アザミミチナミダミチ

木造平屋のアパートにて-12

写真みたいに写実的な絵なら何度か見たことがあるんだけど、実物よりも何倍も素敵な絵っていうのは、あたし、初めて見たのよね。絵の世界に吸い込まれてしまうみたいに感じるような、そんな感覚だったわ。彼が左手を動かす度に、絵の中の世界が息づいていくの。あたしはそれをずっと眺めてた。

空が茜色に染まったあたりで、男の人は立ち上がって伸びをしたから、あたしもそれと同時に現実へと引き戻されたんだけどね。でもね、その時あたし、またこの絵を見に来よう、なんて思ったのよね。

川原からの帰り道、あたしは道を覚えるためにしっかりと周りを見て歩いたわ。泣いていたから気付かなかったんだけど、あたし結構な距離を歩いていたのよね。アパートに帰りついた頃には足が棒で、すっかり暗くなっていたわ。



次の休みの日、あたしはあの川原へ向かったの。あの人は夕方くらいに絵を描くのをやめたから、仕事が終わってから行っても多分いないだろうから。ただ、行ってもあそこであの人が絵を描いてるなんて保証も無いんだけどね。一週間経っているもの、絵が出来上がっているかもしれないものね。

結構な距離だったから、自転車で行くことにしたわ。お腹がすいた時用にサンドイッチを持ってね。絵を描いていた人の分? そんなの用意する訳ないじゃない。だって、知らない人なのよ?

春のやわらかな日射しの下、風が運ぶ新緑の匂いをかぎながら、あたしは自転車をこいでいったわ。川原の中には自転車では乗り込めないから、近くに自転車をとめて、あたしは川原に入っていった。そして、あの人の姿を探したの。

川原を見渡すと、あの時と同じ位置に、黙々と絵を描く後ろ姿を見つけたわ。あたしもあの日と同じ位置に座って、キャンバスの中に命が吹き込まれてゆくのをずぅっと眺めたっけ。

やっぱり先週よりもかなり絵が出来上がっていて、完成間近といった感じね。そのキャンバスの中には、春の川の風景が生き生きと描かれていたわ。あざやかな緑は匂ってくるようで、水は透き通っていて今にも音が聴こえそうなの。そして何よりも、実物よりも輝いていたわ。

絵を描いている様をずぅっと眺めていたら、その人は大きく伸びをして、それから少しだけ移動して芝生に寝転がったの。休憩みたいね。だからあたしも持ってきたサンドイッチを食べることにしたの。鞄からお弁当箱を取り出して、フタを開けた瞬間にね、寝転がってたあの人がむくりと起き上がって、こっちへ向かって来るのよ。 あたしの目の前で立ち止まって、言ったわ。

「あぁ、あんたか。ジャマでもしに来たんか?」

半開きの目からは表情を読み取ることができなかったわ。

「いえ、そんな。あなたの絵を見物しながらの一人ピクニックです」

「ふーん。ジャマしないならまぁいいか」

その人はそう言った後ね、あたしの持つお弁当箱の中から、キレイに整列したサンドイッチのうちのひとつをつまむと、それをヒョイッと口の中へ入れたわ。あたしに何も聞かずによ? いきなり他人のお弁当を勝手に食べるなんていうあんまりな事にあたしが固まっているとね? その人はまたひとつつまんで食べちゃったわ。

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