アザミミチナミダミチ

木造平屋のアパートにて-06

いくら深いドブと言っても、この深さではちょっと死ぬには足りないと思うんだけどね。それでも、落ちたら無傷ではすまないだろうし、あたしは必死に走って止めたわ。

「な、何をするんだ! 僕を止めないでくれ! ぼ、僕は今から、作家として! 作家としての最後を、今迎えようとしていたのに!」

ドブの前に立っていたこの男は……。ひょろひょろのもやしみたいな体型に丸い眼鏡をかけたこの男は……。どうやら作家さんらしくて、あたしの思ったとおり、やっぱり死のうとしていたようなの。

「……そう。でも死ぬならあたしのいない所にしてね。あと、言いたかないんだけどさ、ここで死ぬのは難しいと思うわ。部屋で首をくくった方が、あたしみたいなのにも見つからないし、よっぽど簡単だと思うよ」

知らない男の人があたしの知らない所で自殺してもあたしには関係無いんだけどね、目の前で死のうとしてたら、そりゃあ、さすがに止めるわよ。だからね、その男にそう言ったんだけど……。

「首吊りだって!? 知ってるかい? 首を括って死ぬと、膀胱や腸の中身が出てくるんだよ。垂れ流しだ。そんなの作家としての美学に反する!」

この男の人ったらさぁ、ドブで死のうとしていたくせに、変な事を言うのよね。美学なんて言ってる男がドブで死のうだなんて、ねぇ?

「ふぅん……。美学、ね。じゃあさ、知ってる? あたしも見たことは無いけど、水死体って、水を吸ってパンパンに膨らむそうよ。それこそ、垂れ流しなんかよりもよっぽど酷いことになるみたいよ?」

あたしがそれを教えたら、男の人は顔を歪めていたわ。でも、あたしはいじわるくこう続けた。

「まぁ、美しいということだけが芸術ではないし、自分が醜い姿で死ぬことによって、作家さんなりに何かを表現しようとしたのかしら?」

「う……」

その男の人は言葉に詰まっていたみたいね。

「でも、さっきも言ったみたいに、ここで死ぬのは難しいわよ。怪我はするだろうけど、確実に死ねる場所ではないと思うわ。人もそれなりに通るしね。落ちて怪我をした後で助け出されて、障害が残って自殺するのも叶わない身体で生き延びる……なんてことも十分に考えられるわよ。それこそ美学に反するんじゃない?」

「うぅ……む」

男の人は考え込むような顔でうなったわ。そしてこう続けたの。

「そう、だな。ここで死のうとしたのは少し考えが及ばなかったかも……な」

「でしょう? わかったらもう死ぬのはやめなさいね」

人が死ぬっていうのは、それがあたしとはなんの関係もない赤の他人だろうと、それでもやっぱり寝覚めが悪いからね。

「いや! 確かにここで死のうとした事は考え無しだったかもしれない! だが、僕は死ぬことをやめた訳ではないぞ!」

でも、この男の人は本当に死ぬ気満々みたいでね。元気に死にたがっているこの男の人に、ちょっとばかり腹がたったからさ、あたしはこう言ってやったわ。

「はぁん。そんなに死にたいの。どうせならさぁ、演説かまして切腹でもしたら?」

それはあたしなりのジョークのつもりだったんだけど、誤算だったのは、どうやらこの男の人は冗談が通じないタイプだったってことね。死にたがっている人に冗談なんて言うあたしもどうかしてたかもしれないって、今なら思えるんだけどね。

「み、三島由紀夫の事か!? 僕はああいった思想の持ち主ではないし、作家だからと同じに見られるのは遺憾だね!」

「……あぁ、そう。ところでさ、あんたなんでそんなに死にたがっている訳?」

通じない冗談を言うのはやめにして、まぁ、一応ね、この人が死ぬ気満々のまま家に帰ったら後味が悪いから、一応死のうとしていた理由を聞いてみたのよ。

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