「ん? あぁ、僕は一応プロの作家……と言っても童話作家なんだが、デビューしたのは良いんだけどね、ただ、その後の結果が伴わなくてね……」
丸い眼鏡の下の目を哀しそうに移ろわせながら、男の人は静かに語ったわ。その時あたしの耳と鼻先はすごく冷たくなっていて、早く自分の部屋に帰りたくもあったけど、その人の死ぬ決意をどうにか崩すために、あたしは静かに聞いていたのよ。
「出版社にも見限られそうでね。僕はすっかり……何も書けなくなってしまったんだ」
それはよく有る話……なのかもしれない。童話作家の彼は、ゆっくり続けたわ。
「書けない作家なんて作家ではない。出版社も僕を見限ろうとしている。僕は童話作家でいたいんだ。ただ……僕はもう何も書けないからね」
そこまで言った彼は、せつなげに地べたを見ていたっけね。
「だから、僕の肩書きが元童話作家ではなく、童話作家であるうちに、死んでしまおうと思ったんだ。童話作家のまま死にたかったんだ」
彼が理由を話し終えた後、しばらく二人とも黙っていたわ。ただ、冷たい風が体を冷やすばかり。そして、今度はあたしがゆっくり口を開いたわ。
「……そう。ねぇ、作家さん、死ぬつもりだったのなら、遺稿は書いたのかしら?」
作家の自殺……と言えば遺稿が発見されるもんだしね。まだ書いていないのなら、少なくとも書き上げるまで彼の死を延長できるし、書き上げているならこう言えば良い。
素直に感心するような素晴らしいものなら、「こんな素晴らしいものを書けるんだから、あなたはまだ死ぬべきではない」今ひとつだったら、「最後の作品なんだから素晴らしいものでなくてはいけない。最後の作品としてふさわしいものを書き上げるまで死んではダメ」ね? どんな結果だろうとこの男の人はしばらくの間死なないでしょう?
作家の彼はじっとうつむいたまま、ぽつりぽつりと答えたわ。
「……生憎、僕はさっきも言ったように、すっかり何も書けなくなってしまったんだよ。だから、遺稿なんてものは無い」
彼は遺稿を残していない。ならば、あたしはそれを理由に死なせない。語調を強めて言ってやったの。
「そう。ねぇ、あなたは作家でいるために死にたいんでしょう? だったら、遺稿を残すことが作家のまま死ぬということじゃないの?」
「僕は……僕はもう何も書けやしないんだよ!」
彼はさっきまで下を向いていたくせに、顔を真っ赤にして、涙ぐんだ目であたしを睨みながら、そう怒鳴ったわ。その勢いに、あたしは少し怯んでしまったけれど、この人が死ぬ気満々のままではアパートに帰れないからね。
「書けなくても書くのよ! 作家先生なんでしょ!? 死んだらどう足掻いても何も書けなくなるのよ! だったら死ぬ前に何かを残すべきでしょう!? 今なら足掻くことくらいはできるじゃない!」
大声でそう言ったあたしの勢いに、今度は彼が怯んでいたわ。
「……うっ。しかし、遺稿と言っても、一体何を書けば良いのやら……」
「じゃあ聞くけど、あなたはどうして童話作家になったの? 書きたいことがあったんじゃない? 伝えたいことがあったんじゃない? それを、魂を使い果たすつもりで書けば良い……と、あたしは思うわ」
彼はかなり落ち着きを取り戻したみたいで、しばらく考えるような顔をしていたわね。それから、少しだけ明るい表情になって、静かにこう言った。
「そうだね。僕が死ぬのは君が言うとおり、何かを残してからの方が良いのかもしれない。それが作家として死ぬということなのかもね。今の僕に書けるかはわからないけど、死ぬ前にもう少しだけ足掻いてみるよ。ありがとう」
彼はあたしに向かって静かに頭を下げると、あたしに背を向けて歩きだしたわ。冷たい風が吹く中、ひょろひょろした猫背の背中が遠ざかっていって、あたしもアパートに帰ることにしたの。