アザミミチナミダミチ

木造平屋のアパートにて-7

「ん? あぁ、僕は一応プロの作家……と言っても童話作家なんだが、デビューしたのは良いんだけどね、ただ、その後の結果が伴わなくてね……」

丸い眼鏡の下の目を哀しそうに移ろわせながら、男の人は静かに語ったわ。その時あたしの耳と鼻先はすごく冷たくなっていて、早く自分の部屋に帰りたくもあったけど、その人の死ぬ決意をどうにか崩すために、あたしは静かに聞いていたのよ。

「出版社にも見限られそうでね。僕はすっかり……何も書けなくなってしまったんだ」

それはよく有る話……なのかもしれない。童話作家の彼は、ゆっくり続けたわ。

「書けない作家なんて作家ではない。出版社も僕を見限ろうとしている。僕は童話作家でいたいんだ。ただ……僕はもう何も書けないからね」

そこまで言った彼は、せつなげに地べたを見ていたっけね。

「だから、僕の肩書きが元童話作家ではなく、童話作家であるうちに、死んでしまおうと思ったんだ。童話作家のまま死にたかったんだ」

彼が理由を話し終えた後、しばらく二人とも黙っていたわ。ただ、冷たい風が体を冷やすばかり。そして、今度はあたしがゆっくり口を開いたわ。

「……そう。ねぇ、作家さん、死ぬつもりだったのなら、遺稿は書いたのかしら?」

作家の自殺……と言えば遺稿が発見されるもんだしね。まだ書いていないのなら、少なくとも書き上げるまで彼の死を延長できるし、書き上げているならこう言えば良い。

素直に感心するような素晴らしいものなら、「こんな素晴らしいものを書けるんだから、あなたはまだ死ぬべきではない」今ひとつだったら、「最後の作品なんだから素晴らしいものでなくてはいけない。最後の作品としてふさわしいものを書き上げるまで死んではダメ」ね? どんな結果だろうとこの男の人はしばらくの間死なないでしょう?

作家の彼はじっとうつむいたまま、ぽつりぽつりと答えたわ。

「……生憎、僕はさっきも言ったように、すっかり何も書けなくなってしまったんだよ。だから、遺稿なんてものは無い」

彼は遺稿を残していない。ならば、あたしはそれを理由に死なせない。語調を強めて言ってやったの。

「そう。ねぇ、あなたは作家でいるために死にたいんでしょう? だったら、遺稿を残すことが作家のまま死ぬということじゃないの?」

「僕は……僕はもう何も書けやしないんだよ!」

彼はさっきまで下を向いていたくせに、顔を真っ赤にして、涙ぐんだ目であたしを睨みながら、そう怒鳴ったわ。その勢いに、あたしは少し怯んでしまったけれど、この人が死ぬ気満々のままではアパートに帰れないからね。

「書けなくても書くのよ! 作家先生なんでしょ!? 死んだらどう足掻いても何も書けなくなるのよ! だったら死ぬ前に何かを残すべきでしょう!? 今なら足掻くことくらいはできるじゃない!」

大声でそう言ったあたしの勢いに、今度は彼が怯んでいたわ。

「……うっ。しかし、遺稿と言っても、一体何を書けば良いのやら……」

「じゃあ聞くけど、あなたはどうして童話作家になったの? 書きたいことがあったんじゃない? 伝えたいことがあったんじゃない? それを、魂を使い果たすつもりで書けば良い……と、あたしは思うわ」

彼はかなり落ち着きを取り戻したみたいで、しばらく考えるような顔をしていたわね。それから、少しだけ明るい表情になって、静かにこう言った。

「そうだね。僕が死ぬのは君が言うとおり、何かを残してからの方が良いのかもしれない。それが作家として死ぬということなのかもね。今の僕に書けるかはわからないけど、死ぬ前にもう少しだけ足掻いてみるよ。ありがとう」

彼はあたしに向かって静かに頭を下げると、あたしに背を向けて歩きだしたわ。冷たい風が吹く中、ひょろひょろした猫背の背中が遠ざかっていって、あたしもアパートに帰ることにしたの。

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