アザミミチナミダミチ

木造平屋のアパートにて-8

作家の彼とはそれで終わりだと思っていたんだけど、あれからしばらく経った……またもや銭湯帰り、あのドブの前に……いたのよね。濡れた髪で家路を急ぐあたしに、彼は笑顔で手をあげたわ。

「やぁ。あの日、銭湯帰りだったんだろう? だったら、通り道なんだろうし、同じくらいの時間にここで待っていたらまた会えると思ったんだよ。予想通りだったね」

銭湯帰りのレディーを待ち伏せなんて信じらんないんだけど、本当の話なのよね。

「で? 童話作家さん、何の用かしら?」

この時のあたしはちょっと不機嫌だったわ。まだまだ寒い時期だったし、あの時は死なれたら嫌だから我慢したけど、濡れた髪で外にいるのは辛いからね。死なないのならこっちには彼と話す理由なんか無いし、早く帰りたかったのよ。

「あれ? 機嫌悪いね。もしかしてあの日? あ、用事は君に読んでもらおうと思って。書いたんだよ! 魂を使い果たすつもりで!」

あの日? だなんて、無神経にも程があるんだけど、彼は魂を使い果たすつもりで書いたものを、あたしに見せたいって言ってるのよね……。あたしは彼にとって赤の他人なのに。

「なんであたしに?」

「君が遺稿を書くべきだと言ったから、これを……書くことができたんだ。君のおかげで産まれたんだよ。だから、君に読んでもらいたくてね」

すごく穏やかな声でそう言うから、あたしの気持ちも穏やかになっていったわ。あたしに読んでほしいって言ってる。それは嬉しいことなのよね。作品を書き上げた彼は、なんだか幸せそうだったし。ただ、彼が次に続けた言葉が問題だったの。

「君にこれを読んでもらったら、今度はきっと幸せな気持ちで死ねるよ」

彼ね、笑顔だったし、あたしてっきり良いものが書けたから生きる意欲が湧いたもんだと思っていたんだけど、死ぬ気が無くなった訳じゃなかったみたいなの。だからあたしはまたもや彼の自殺を止めなければならなくなったのよ。ただ、とりあえずその時あたしは寒かったのよね。

「自分で満足して、それで死ぬの? じゃあ、あたしが読んだら、死んでも良いくらいの作品かどうか採点してあげるわね。ところでさぁ、寒くない?」

あたしの質問に、彼は虚を衝かれたような顔をしたわ。

「へ? あぁ、寒いね」

「うん。だから、ここで立ち話じゃなくて、どこか座れる所……喫茶店……はもう閉まってるかしら? この時間なら居酒屋かしらね? あ、当然あなた持ちでね」

彼はただぽかんとしていて、あたしの言っている事が飲み込めていないみたいだったけどね。 だからあたしは居酒屋の方へ向かって勝手にずんずん歩いていったわ。彼は慌ててあたしを追いかけてきてね。 でも、居酒屋についてお店のドアを開けようとした時……「ごめん、僕、手持ちが無いんだ」って、そう言うからね?  あたしも少ないお給料で生活していて、人に奢る余裕なんて無かったしね。だって自炊してたら解ると思うんだけど、居酒屋行くと数日分の食費が飛んじゃうのよね。

だから……仕方なくよ? 彼の遺稿は、あたしの部屋で読むことにしたの。

Return Back Next

Copyright © 2018 アザミミチナミダミチ

Template&Material @ 空蝉