木造の古いアパートだからかしらね、アパートの廊下は歩くたびに床がきしんで、造りのせいか少し窮屈だったわ。そこを彼と歩いていると、おじさんとすれ違ったの。おじさんは彼を見ながらすれ違い様こう言ったのよ。「おぅ。嬢ちゃん。なんだそのモヤシは? 嬢ちゃんの新しい男か?」ってね。
「違いますったら! そういうんじゃありません!」
あたしは声をあらげて否定したんだけどね、「ほぉーう、嬢ちゃんは自分の男でもない男を部屋にあげんのか? 近頃の若い娘の考えることはわからんなぁ」なんてさ、彼の顔を覗き込んだあと、にやりと口の端を上げて言うのよ。
「だからそういうんじゃないんですってば!」
あたしはもう一回否定したんだけど……「へいへい。襲われねぇようにな」おじさんはそう流して、その後口笛を吹きながら自分の部屋へ戻っていったわね。
あたしが古びて色のくすんだドアを開けて自分の部屋へと入ると、後ろの彼もペコッと頭を下げてそれに続いたわ。狭い部屋に二人、正座で座り込んで、「じゃあ、読ませてくれるかしら?」あたしがそう言うと、彼は静かに鞄から遺稿になる予定の原稿を取り出して、私に手渡したわ。
これを書いたことをあたしに言った時の彼はやりきった満足そうな顔だった。ならば、彼を生かそうと思うなら、ここは褒めるよりも貶した方が良い、と、その時のあたしはそう思ったの。どう貶そうかと考えながら、彼の遺稿を読み進めていったわ。一度遺稿を読み終わったあたしは、今度は赤ペンを手にして、もう一度遺稿を読み始めたわ。彼は正座を崩しもせず小さくなって、そんなあたしを待っていたっけ。
今から考えると信じらんないんだけどね、あたし、赤ペンで彼の遺稿を添削してやったのよ。彼、売れていないとは言っても、プロの作家先生なのよ? それをさぁ、ド素人が添削だなんて、本当にあの時のあたしったらさぁ……。でも、死なれちゃ困るからさぁ、必死だったのよね。
「はい、こんなもんね。あたしに添削されるようじゃさぁ、まだ満足して死ぬには早いんじゃない? でも、あたし、あなたの書いた話、好きよ」
あたしがそう言って彼に遺稿を返すと、彼は静かに頭を下げて受け取ったわ。遺稿を鞄にしまい、ゆっくり立ち上がると、部屋の出口に向かってそろそろ歩いてった。部屋を出る前にね、あたしに振り返って、「ありがとう。……本当にありがとう」そう言ってもう一度頭を下げたわ。……少し、涙目だったわね。
結果として言うとね、彼は自殺をしなかった。そして、彼が遺稿にするつもりで書いたあの作品はね、結局のところ遺稿にはならなかったのよ。彼は死なずに、そう、たしかファミリーコンピュータが発売されたのと同じ年に、あの作品を発表したの。そして、彼はあの作品によって世間に注目されたのよ。
ただ、一作当てたくらいじゃ安泰とは言えないんだけどね。一作当てた次が大事だからさ。そのせいかしら? 彼ね、新作をさぁ、誰より早くあたしに見せに来たのよ。あたしが親元を離れてから、あたしの部屋には訪ねてくる友人なんていなくてさぁ、誰だろうって思ってたら、彼だったのよね。家、あの時に覚えられちゃったみたいでさぁ……。そして彼は玄関の前に立ったまま、こう言ったの。
「あれが産まれたのは君のおかげだ。そして、あれが売れたのも君のおかげだ」
「あたしはきっかけを作ったかもしんないけどさぁ、書いたのはあなただし、売れたのだって別にあたしのおかげじゃないわよ」
あたしがそう返すと、彼は一度うつむいて、それから顔をあげてあたしと目を合わすと、真面目な顔でこう言ったわ。
「君がいなかったら僕は死んでいただろうし、あのまま発表したとして売れただろうかね? 僕には、あれが売れたことも君が添削してくれたからだと思えてならないんだ」
そして鞄の中から新作の原稿を取り出すと、それをあたしにそっと手渡したのよ。
「僕が童話作家で在り続ける為に、君に添削してほしい」
そういのはさ、多分、編集者かなんかの仕事だと思うんだけどね、彼がそう言っていることだし、彼を部屋の中まで招き入れて、あの日みたいにあたしは再び彼の作品を添削したわ。
そして、次の作品も、その次も、あたしは添削をしたのよ。